時間を味わう

 

 年の瀬が近づいてきました。ちょっと油断しているとあっという間に12月も終わりを迎えようとしています。皆様も年末年始へ向けて準備をしているころではないでしょうか?年末が近づきお寺参りされた方々とお話しするとよく「一年があっという間に過ぎてしまった」というフレーズを聞きます。私自身も時間が経つのが年々早くなっているように感じております。そして今年一年やり残したことが沢山あることに気付き、つくづく時間の使い方の下手さを痛感させられます。来年こそは時間を大切に使おうと毎年思うのですが、果たして来年はうまくいくでしょうか???

 

 さて、この「時間」というものは人類の大きなテーマなのかいつの時代も時間の使い方、時間そのものについていろいろと考えておられる人が多いようです。哲学者はもちろんのこと永平寺を開かれた道元禅師も著書の中で時間について非常に深く考えておられたようです。時間は時代と共にそれぞれ感覚が変わってきたようで、昔話などの時間の流れは実にゆったりとしたものであるように思います。しかし、現代社会ではもっぱら「時間」をどれだけ有効的にかつ効率的に使っていくかということが工夫されてきているように思います。より早く、より便利に…世の中にはどんどんと便利なものが増えていって少しの時間で多くの用事が済ませられるようになってきています。

 しかし、私はどんどん便利になっていく程に人間は時間の使い方が下手になってしまっているのではないかと感じているのです。決まった時間の中で多くの用事をこなすという意味では時間の使い方は上手であるかもしれませんが、あまりの速さに見逃しているものが多くなっているのではないでしょうか。田舎で生活しているとどうしても車移動が多くなりがちです。車で移動するとあっという間に用事は済んでしまうのですが、同じ道を歩いて通ってみると全く違った景色が広がっています。季節ごとの空気や草花、近所の人たちの生活音などなど、車移動では見逃しているものが五感に入ってくるのです。

 現代社会ではいまさら不便さを求めることはできないでしょうし、便利になることで得られることは多くあると思います。ですが、便利さだけに身をゆだねてしまうと視野がどんどん狭くなってしまうことでしょう。時間に余裕のある時には用事に時間をかけながら丁寧に勤めてみてはいかがでしょうか。きっといつもと違った景色がみえるでしょうから、そのゆったりとした時間を味わってほしいものです。

 

 どうぞ皆さまよいお年をお迎えくださいませ。そして来年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

住職 合掌

納骨が四十九日なのは?

 

 今日は私が住職となり仏事をつとめる中で感じたことを綴らせていただければと思っております。

私たち曹洞宗を含む多くの日本仏教ではご葬儀が終わって四十九日後に納骨を行うことが一般的になっています。光雲寺でも納骨は四十九日の法事をつとめてから行うことが大多数です。その事に私自身住職になってからずっとの間、決まり事としてとくに意識することなくつとめてきました。しかし、現代社会では都合上キッチリ四十九日後に納骨をおこなえることは滅多になく、四十九日の法事をずらして行うことが普通になっています。そんなことが重なるなかで四十九日の納骨ということについて考え始めたのです。

 納骨を行う四十九日の法事は、人は亡くなった後に中有と呼ばれる七日間を一区切りとする期間を7回繰り返すという教えに依ります。みなさんがよく聞く三途の川を渡り閻魔様の裁きを受けたりする話はこの中有の四十九日の間の話なのです。この中有の七日間を7回繰り返したのちに故人は仏の世界へと旅立って行かれるのです。その為、ご葬儀の後に私たちは七日経というお経をお唱えして故人の旅路が安らかになることを願っているのです。

 この中有の思想は遠くインド仏教の時代から続くものであるのですが、納骨を四十九日に行うというのは実は最近の風習なのです。数十年前までは日本でも葬儀は主に土葬でした。土葬の場合は葬儀の直後に埋葬するため納骨という考え方は少なかったようです(※納骨をする風習もあったようです)。ですから、この時代には七日経は故人のお墓にたいしてつとめるものであったと言ってもよいでしょう。その後火葬が主となっていくなかで、家で四十九日の間お骨をお祀りする風習へと変わっていったようです。

そう考えていくと「別に納骨は火葬の直後でも問題ないんじゃない?」「わざわざ時間を開けて納骨するなんて大変じゃない?」そんな意見が聞こえてきそうです(;^_^A

 しかし、私は納骨してもいいはずなのに四十九日間という時間を持つことに大きな有難さを感じるのです。そしてこのお骨を共に過ごす期間が故人を仏の世界へと導いてくれているのではないかと感じるのです。私は葬儀という儀式は仏の世界への旅路の一歩目を踏み出してもらう式だと思っています。葬儀でお経を唱えた瞬間に故人が仏さまになるわけでもなく、火葬によって仏さまになるわけでもないと思っています。あくまで仏さまになる為の一歩であるのです。そして、葬儀の後の四十九日、一周忌、、、と時を経ていく中で故人、そしてこの世に残っている私達の心も共に仏さまへと近づいていき、最後には仏さまへとなってもらうものだと思っています。その中で特に大切になるのが最初の四十九日ではないでしょうか。この期間をお骨と共に生活する。常に目につくところにおられて、食事の際には私たちと同じご飯を供えて一緒に食事を食べ、時にはお線香を立てながらお骨に向かって話しかけたりもするでしょう。その度ごとに故人を想い、思い出を振り返って手を合わせていく・・・その積み重ねこそが仏の世界への旅を安楽にするものなのです。

 そしてまた、49日間という日数もまた不思議な力をもっているように思います。これが30日(一か月)より短いと身も心も落ち着かず、50日を超える長い時間だと未練がつづき、心が苦しくなる。そんな絶妙な長さを昔の人は体感的にわかっていたのではないかを感じるのです。

 仏事に限らず昔からの風習での決まり事というのは理屈だけでは理解できない不思議な感覚があるように思います。時期や時間、場所など多くの人々が長い時間と思いを積み重ねていく中で最も心地よいものへと集約されてきたのではないでしょうか?現代では古臭いと思う風習の中には過去の人々からの想いや願いが詰まっているのかなと感じ取っていただけるとありがたく感じます。

                                  住職 合掌

お蔭さまの供養

 

 今年もお盆の時期が終わりました。お盆の時期はお坊さんが一年で一番駆け回っている時期ではないでしょうか。各ご家庭を回っての棚経やお寺でのお供養、盆踊りでの慰霊祭など様々なところでおつとめしておられるように思います。今回はこのお盆についてお話をさせていただければと思います。昨年(プチ法話2015)お盆行事について説明させていただいたように、日本のお盆は仏教と日本独自の風習が混ざった行事です。その為、各ご家庭での先祖供養や盆踊りなどの地域全体での供養など様々な形をとったまま現在へと続いてきているのです。しかし、その根底には『お蔭さま』という想いがあると思うのです。

 

 皆さんご家族ご親族の方などが亡くなられるとお葬儀があり、その後には1周忌、3回忌などの年忌供養というものを行われることかと思います。この時の供養は特定の故人を偲び『感謝』を届ける供養であるでしょう。一方、お盆供養のお経はすこし趣が変わってきます。お盆供養の際にも皆さん年忌供養と同様にご先祖さまの供養を行います。しかし、お盆の場合には年忌供養とは違い、少し回り道をしながら供養が行われるのです。お寺での供養を行う際にお寺の正面でなく精霊棚と呼ばれる棚の前でお経をお唱えすることがあります。この精霊棚には野菜や山野界の乾物が山盛りにお供えしてあるのですが、このお供え物はご先祖さまにお供えされたものではないのです。このお供え物は餓鬼界という食べ物を食べることが出来ない苦しみの世界にいる人々の為に供えられたものなのです。そしてお坊さん達が呪文のようなお経をお唱えしその法力でもって餓鬼界の人々に食べ物を届けるのです。この餓鬼界へ施したことでの功徳を私たちのご先祖さまに巡らして先祖供養を行うというのが私たちのお盆供養の仕方なのです。

 そんな回り道をした先の先祖供養なのですが、その先に更にまわりくどい供養が続くのです。餓鬼界への施しをご先祖さまに巡らせると言いましたが、実は巡らせるのはご先祖さまだけでなく「有縁無縁三界萬霊(目に見えるもの見えないもの、この世界のすべてのもの)」にこの功徳を巡らせますとお唱えするのです。なぜこんなにも途中の手法も目的地も回り道してわかりづらく、ぼんやりとした供養の仕方をするのか私自身不思議に感じていました。そんな時に教えてもらったのが「感謝」の供養と「お蔭さま」の供養の話だったのです。

 

 一年に一度だけお盆の時期には日本全国の人々が忙しい毎日の中で立ち止まり故郷に戻り家族・地域の人々と時間を過ごす。そこには普段見落としがちな有縁無縁のつながりが広がっているのではないでしょうか。私たちが生きていく中ではすべてが一対一でつながっているわけではありません。様々な縁の中から頂きものをして、様々な縁へと届け物をしているのが私たちの一生です。その関わっているすべての縁に対して「お蔭さま」と伝えるのがお盆であると思うのです。このお盆という季節が来たら、どうか人と人とのつながりを見つめ直し、人と人とのつながりを歓ぶ。そんな時間であった貰いたいものです。

                                  住職 合掌

歓宿縁

 先日24日は光雲寺のお地蔵供養でした。檀信徒の方と共によいお供養ができたのではないかと思っております。

 さて、毎年のお地蔵供養では必ず県内から説教師さんをお招きしてお説教をしていただいています。本年は美祢市のお寺のご住職さまをお呼びして一時間程のお話をいただきました。今年の説教師さんは私の2つ年上と比較的若い僧侶の方だったのですが、僧侶になる前、僧侶になった後に経験された色々な話をしてくださいました。その中で様々な苦しい経験をする中で出会った言葉として紹介されたのが「歓宿縁」でした。

 

 歓宿縁、(宿る縁をよろこぶ)と読み、縁を大切にして生活しましょうというような意味の言葉でしょうか。確かに素敵な言葉であるのですが、説教師さんはこの言葉に出会った時にすぐにはこの言葉の意味が分からず、反対にその言葉を受け入れることができなかったそうです。「本当に苦しい時に悪い縁もすべてよろこぶなんてことできるハズないじゃないか。」自身の当時の苦しい状況にそんな風に思ったそうです。

 

 その方はそれからしばらくした時に以前お師匠様から聞かされた「縁に良い縁も悪い縁もない。あるのはよっぽどの縁だけだ」という言葉が頭によぎって思い直すことができたと言っておられました。良い縁が来たから歓ぶのではないのです。また、悪い結果が出たからそれを悪い縁だと決めてはいけないのです。縁には本来善悪はないのです。その縁を受けた私達自身のフィルターを通る時に自分の『我』を通したときに善悪が生まれてしまうのです。

説教師さんはその事を受け止めることが出来て以来、楽しいことも苦しいことも含めて様々な出来事(縁)をしっかり受け止めて、自分自身の進むエネルギーに変えることが出来るようになったんだそうです。

 

 縁とは結果ではありません。縁とは過去から未来へとつながっている線のようなものではないでしょうか?結果に一喜一憂する歓宿縁ではありません。繋がり続けている一本の線の上を堂々と歩いていく歓宿縁でありたいものです。

                               住職 合掌

この花三徳

今月の伝道掲示板の標語は「この花三徳」です。

「寒風に咲きて心をひらき、 熟して実は体をいやし 、 死して種子は数珠となる」

 

 以前に県内の老僧のお話を聞かせて頂いた時に教えて頂いた言葉になります。ちょうど先日境内の梅の木から熟れた梅の実を収穫していて、ふと思い出したので今月の標語に載せさせていただきました。

 

 題目にある“この花”とは梅の別名なんだそうです。現在は花見と云えば桜の花を想い浮かべますが、大昔には花見は梅の鑑賞であったそうです。たしかに漢詩や仏教説話などにも梅の花が出てくることが多いのも当時の文化風習であったのでしょう。そんな梅はまたその生き様(?)が教訓として引用されることが多いようです。以前にNHKみんなのうたで梅の実の姿を歌ったウメボシジンセイという歌が流れているのを聞いたことがありますし、私達夫婦の結婚式での私の師匠からの祝辞も梅干しの喩えだったものです(笑)。

 

 標語にある「寒風に咲いて心をひらき」とは私たちの姿・表情のことでしょう。梅や桜の花は春の訪れを告げる花で、これらの花が咲くことで日本全国春の喜びにあふれるように思います。特に寒い地方(鹿野もそうですが)ではウメの開花で非常に心躍るように思います。寒い寒い冬の終わりを告げる早春のウメの花はどこか欝々とした心にも花を咲かせてくれるような気がします。

 私自身、梅の花で心暖められた経験があります。僧侶となって修行道場に入ってすぐの頃です。2月の上旬に修行道場へ入った私ですが、何もわからない状態で毎日のように怒られながら過ごしておりました。修行道場での生活になれるまでの1ヶ月間は一日の中でお堂と特定の部屋の移動しかなく、ほとんど空を見ることがない生活をしていました。そんな毎日慣れない生活で怒られ疲れ果ててめげていたときの事です。お堂からお堂への移動中にふと窓から庭が見えたのですが、そこの一本の梅の木に薄ピンク色の梅の花が咲いているのが見えたのです。その時に梅の花を見て私の心はワケもなくホッとしたのを覚えています。2月上旬に修行道場に入り、わけもわからず必死に過ごしているうちにひと月が経ち、梅の花が咲く季節になったんだな。そんな忘れていた時間経過を感じさせてくれたと同時に、毎日、目の前の事で精一杯で下ばかり向いていた私の心を上に向けさせてくれた。そんな梅の花の力を感じた瞬間でした。

 

 早春にさく梅の花に限らずの様々な花の姿に私たちは力をもらい励まされることがあるように思います。そこには理論的な理由はないのかもしれません。大自然の大いなる力としか言えないでしょう。そして、花に限らず私たちの姿・表情にもまた、人に力をあたえ励ます力が宿っているように思います。

さらに味わって貰いたいのは「寒風に咲きて」という梅の花の特性です。梅や桜のつぼみは冬の寒さを感じなければ花を咲かせることはないそうです。誰しも笑顔や優しい表情をしていたいと思うものですが、つらい時や苦しい時にはできないものです。もし自分が同じような想いをしたことがあるならば、その寒風の感じた私だからできる表情でその人に寄り添い心を暖めて頂きたいものです。

                                 住職 合掌

天に貯金してある

「私は天に貯金してあるから、必要な時は天から無限におろせるんだよ」

これは私の師匠が時折つかう言葉です。

 

 私の師匠が住職を務めるお寺は光雲寺と同じく山間部にあり、決して大きなお寺とはいえません。しかし、師匠は何十年とお寺の住職を務める間に古く傷んでいたお寺を修復し、今では素敵なお寺へと変えてこられたのです。その道のりを話してくださる中に先ほどの言葉が時折出てくるのです。

私自身、山間部のお寺の住職を務めていて痛感するのですが、お寺の伽藍(建物)を維持することは大変な事です。建物は時間が経てば当然傷みが出てきますから、その都度修繕を行うのですが、お寺という大きな建物なうえに特殊な建築物であるため修繕を担ってくれる大工さんの数も少ないのです。そうなるとどうしても手間もお金もかかってしまいます。ましてや新しい建物を作ったり境内を整備することには二の足を踏んでしまいがちです。そんな中で師匠がお寺を維持し更に輝かせてきた事は私にとっては驚きであり、その力はどこにあるのだろうかと考えさせられます。

 

 私たちは物事を始める時に色々なことを考えます。自分の力量、立場、お金、時間etc.…これらのことを色々考慮してイケると思ったときに行動を起こすのが普通ですね。これらのものが揃っていないのに動き出すことは危険でしょう。でも、本当に何かを成し遂げたいという時に全ての条件がそろってから進む事なんてできるのでしょうか?条件が揃うまで只々待っていてはいつまで経っても“その時”が訪れることはないかもしれません。

 師匠も最初、小さなお寺で人脈もお金もないような状況で、周りの人には「今は無理だよ。またできる時にすればいいんじゃないか」と言われ続けたそうです。でも、師匠はそこから一歩を踏みだしたのです。すると、一歩を踏み出したことによって、その進む道に多くの人との出会いや縁が満ちていたそうです。その一つ一つの縁を大切にしていくことで次から次へと縁が広がっていって新たな道が開けてきたんだと教えてくれました。

 

 私は“天に貯金してある”という言葉には2つの意味があると考えています。一つは『無限の縁』の事をいっているのでしょう。私たちが勇気をもって一歩を踏み出せば、その先には無限に広がる道があるのです。その一つ一つの縁こそが大きな宝物であり、その縁を活かしていく事で壁を超えることができるでしょう。

 もう一つは『自分の中の貯金』ということではないでしょうか?先ほどの無限の縁も自分自身がその縁を悦びとして受け取ることが出来なければ活かしきることはできない事でしょう。道元禅師が遺された『普勧坐禅儀』と云うお経の最後の一文に「坐禅を一心に行い続ければ、自分の中の宝の蔵が開けて自由自在にその宝を使いこなせるようになる」と書かれ 

ています。自分自身という素晴らしい宝物を腐らせることなく生きることができれば、そこには無限の貯金が湧き出てくるのではないかと私は思うのです。

 

                                住職 合掌

食べ物の味はどこにある?②

 

 昨今、テレビをつければ毎日と言ってよいほどグルメ番組が流れています。朝の情報番組から夜の番組まで「あのお店が美味しいらしい、このお店が美味しいらしい…」。テレビの中ではキラキラと輝く美味しそうな食べ物がひっきりなしに映し出されます。私自身もそんなグルメ番組を見ながら食べてみたいなと楽しんでおりますし、実際に美味しいと評判のお店に食べに行ってみるということもあります。たしかにどこのお店も美味しい食べ物ばかりで幸せを感じさせてもらっております。

 しかし、美味しい食べ物に幸せを感じるとともにこんな疑問が浮かんでくるのです。

「次から次へと美味しいものが現れてくるけど、これに終わりはあるんだろうか?」

もっともっと美味しいものを食べてみたい!!もっともっと・・・どうやらそんな思いは尽きることがなさそうです。

 

 最近は精進料理が味だけではなく健康によいということもあってか人気があるようです。美味しいさだけでなく体にも良いシンプルな食事が見直されているのでしょう。しかし、私はそれだけでは美味しさを求めることと本質は変わらないのではないかと思うのです。

 皆さんは精進料理というとお肉を使わない野菜中心の料理というイメージがあるのではないでしょうか?たしかに精進料理の定義はお肉やネギなどの臭いのつよい食材を使わない料理と定義されています。これは動物を殺生することが不殺生の教えに背くためであるとも言われます。それによってお坊さんは清浄に保たれているといったイメージがあるように思います。

 でも私は本当の精進料理とはそんなことではないのだと思うのです。(決して精進料理を否定するわけではありませんよ)精進料理とは出てきた食べ物、食材の事だけをいうのではなく、それを頂く自分自身を含めて精進料理だと思うのです。たとえ僧侶が決められた食材で見事な精進料理を作ったとしても、食べる私たちが大切に頂かなければ食材も料理人の想いも水の泡となることでしょう。精進料理の“精進”とは食べる側が心を尽くすことでもあるのです。極端な事を言えばお肉が入った料理であってもその食事に真摯に頂くことができたならばその食事は精進料理と言ってもよいのかもしれません。

 私たちは味を舌で 感じます。でも、舌で感じる味覚だけでない“味”が私たちには確かに存在するのです。同じ食べ物でも気分や体調で味が変わるというのは皆さんも経験されていることでしょう。味の食べ比べも楽しいことではありますが、時にはまっすぐに食べ物の味を味わってみるのも良いことではないでしょうか。

 

 応量器での食事を体験してくれた学生さんが言ってくれました。

「今まで生きてきた中で あんなに食事に集中した時間はなかったです(笑)」

光雲寺での食事体験は料理としての精進料理は正直大したものではなかったかもしれませんが、食べ物と食べる人が合致した素敵な精進料理であったことだと思います。

                             住職 合掌

食べ物の味はどこにある?①

 三月も後半を迎えて卒業シーズンに突入しています。桜のつぼみも赤く育ってきて月末にはきれいな花を見せてくれそうです。

 

 さて、先日光雲寺に県内の大学生が来てくださる機会がありました。鹿野の中山間地域振興のイベントの一環として寄ってくれたのですが、お寺で食事をして坐禅、ヨガ、お香づくりなどを体験してもらいました。普段できない体験に学生さんたちも喜んでくれていたように思います。

 その中で「お寺食事」ということでお寺の作法に従って食事をしてもらう機会がありました。お寺食事といっても精進料理がメインというわけではありません。もちろん内容は精進料理なのですが、食事内容が主ではなくて“食事の食べ方”を主とした体験でした。これは私が修行道場にいた時からずっと心に温めていた想いがあったんです。

 

 修行道場に行って一番最初に習うことの一つに食事作法があります。忘れもしない修行道場1日目。修行道場での初めての食事時間となり、薄暗い坐禅堂に通されます。手には応量器という布に包まれた食器のみを抱え、坐禅の姿勢をとります。そして先輩の和尚さんの作法を見ながら必死に食器を広げて食事の準備を行うのです。細かい作法を間違える度に先輩の和尚さんに注意されようやくたどり着いた食事は…まったく何を食べたのか覚えていません(汗)

 最初の頃は作法に気をとられて全く味わうこともなく食事をしたのを覚えています。

「作法ばかりでゆっくり食事もできないじゃないか。」

「ここまでガチガチな食べ方じゃあ食事を楽しむなんて無理じゃない?」

そんなことばかり頭に浮かび、正直食事の時間は憂鬱なものとなっていたのです。

 

 しかし、そんな食事作法にも慣れていくと自分の中に気付くことがあるのです。

「あれ? お粥(お米)ってこんなにおいしかったっけ?」

「野菜ってこんなに味がしっかりしてたっけ?」

 

 不思議と応量器でいただく食事は美味しく感じるようになってきたんです。特に私はお粥がとても美味しく感じられていて、お粥を食べるのが楽しみにさえなっていたのです。

 ところがお寺が忙しく食事が坐禅堂でなく別の場所となった日の事です。同じお粥をプラスチックの茶碗で食べることがあり、その時には細かい作法はなく普段通りにお粥を食べたのです。

すると「あれ?普通の味だ… 」

同じお粥なのに全く違う味に感じたのです。これは私だけではなくて修行仲間も口をそろえて言っていたので確かなことなのでしょう。

 

その時に私は食事の味は食べ物の成分だけで決まるのではないのだということを知ったのです。

 

つづく                             住職 合掌

帰家穏坐

最近“ふるさと”という言葉をあまり聞かなくなったような気がします。

ふるさとというとどこかノスタルジックな古いイメージなのでしょうか。

 

 今日ご紹介するのは帰家穏坐(きかおんざ)という言葉です。これは有名な禅語のひとつで、直訳すると家に帰って穏やかに坐ることになります。これを仏教学的に見ていくと、家とは本来の自己の事であり、修行の先に本来自身に備わっている仏性に立ち戻り云々…。

一気に抽象的な内容になってしまい、わかったよなわからないようなです(汗)

 

 私はよく人生の幸せってなんだろうかと考えることがあります。仏教って最終的には人生を幸せに生きるための方法を説いているハズ。なのに、色々な教えやら知識ばかりに目が行ってしまって幸せに生きるということを見失ってしまっている気がするんです。

シンプルに、シンプルに幸せってなんだろうかと考えてみたら「自分が自分でいられる場所がある」という事ではないでしょうか。その場所を見つけ、大切にしていくことが「帰家穏坐」への私の想いです。

 

子供の頃、家に帰って家族と食事する時の安堵感。

学生の頃、故郷を離れて実家に戻った時の安心感。

働いている頃、仕事が終わって家に戻った時の安らぎ感。

年を重ねた頃、久しぶりに同級生に会って昔に戻ったような高揚感。

こういった場所の存在に人生って支えられている気がするんです。

 

 自分が迷った時に戻ることができる場所。そんな当たり前と思ってる場所に中々帰ることが出来なくなっているのではないでしょうか。私自身も気が付くと心がフラフラとさまよっているような気がします。

 

 ふるさとという言葉が死語になりつつあるのも現代社会は時間の流れが兎に角速く、前に前にと進む事が重要視されているからではないかと思います。実際、前進しつづけなければ生きていけない時代なんだと思います。そんな時代だからこそ、自分の立っている場所を見つめなおしていきたいんです。

皆さん自身の「帰家穏坐」を見つけてみてはいかがでしょうか。      住職 合掌

一期一会

 先日、以前に見た映画が急に見たくなったことがあり、その映画を久しぶりに見てみることにしました。見た感想はやはり良い映画だなぁと感じたのですが、その感動を覚えたシーンが以前見た時とは別のシーンであったように思ったのです。あれ?以前見た時って別のところが好きだったような気がするのに・・・? 皆さんもそんな経験ないでしょうか?同じ映画を見ても、同じ本を読んでも…etc. 以前と違う気がする…そんな時には「自分も年をとったなぁ~」そんなセリフが聞こえてきそうです(笑)。

 

 長い時間を振り返った時に私たちは自分自身が変わったなぁと気付く事が多いのですが、実は私たちは毎日毎日、一秒一秒ごとに新しい自分へと変わっているといってもいいのです。仏教では世界のあらゆるものは様々な要素が絡み合って成り立っていて固定された“我”というものではないのだと教えています。更に私たちの一生を “一呼吸に生まれて死ぬ” と言われる祖師もおられます。科学的に見ても人間の体の細胞は早いものは数日で入れ替わり、一年も経つと体の成分は丸々入れ替わるとも言われます。私たちは常に新しい自分自身に生まれ変わり続ける存在といってもいいのかもしれません。

 

 そう思うと毎日を只々同じ日の繰り返しだと思って過ごすことは寂しいことであるように思えてきます。

「どうせ自分はこの程度だから」…私たちは変化し続ける存在です。自身が変わろうと思えばすぐにでも変わっていけるのだと思います。

「面倒くさいから後回しにしよう」…今という時間を味わえるのは今の自分だけです。次の瞬間には別の自分になってしまうことを忘れてはいけません。

 

 茶の湯の言葉に一期一会という言葉があります。この言葉は一つの茶席、一つの出会いを一度きりのことだと思って大切につとめよという意味合いで使われます。しかし、一度きりなのは相手や時間だけではないでしょう。なによりも一度きりの自分自身を大切に務めなさいということを言っているのではないかと思うのです。

住職 合掌

願われるチカラ

 異常な暖冬も一旦なりをひそめたようで、ここ数日は冬らしい気配が光雲寺を包んでおります。正月気分もあっという間に過ぎ去って一月も半分が過ぎ去りました。一月は行く、二月は逃げる、三月は去るとこれからの三か月は駆け足で進んでいく事でしょうが大切に日々を過ごさねばと思う住職であります。

さて、先日妻がインターネットで調べ物をしていたので何だろうかと思って聞いてみると、イボとり地蔵の場所を調べているのだと言うのです。妻にイボでも出来たのかと思ったのですが、どうやら知り合いの為に調べたのだそうです。調べていくと隣の市にイボとり地蔵さんがあるとの情報があったのですが、その備考欄にこんな事が書いてあったのです。

 

「人に頼んで祈願して貰うとイボがとれる」

 

 なるほどねぇ~と思わずニヤリとしてしまいました。どうやら自分でお参りしても効果は薄く、知り合いである妻にイボとり地蔵にお参りして貰いたかったようです(笑) 考えてみると「願い」というものは自分が願う願いの他にも他人から願われる願いというものもこの世には多く存在するものです。そしてその願いもまた大きな力を持っているのではないかと思うのです。しかし、他人からの願いというのはパッと見では全く気付くこともないし、力のないもののように思えます。

 お寺の境内にあるお墓によくお参りに来られるおばあさんがおられます。その方とお話をしてみると遠くに住んでいる子や孫の健康や仕事がうまくいきますよう等のお願いをしにお参りにくるんですといつも言われます。たしかにおばあさんがお墓の前で遠くにいる家族の事を願ったとしてもその声が家族に届くわけではないですし、具体的な力になることはないでしょう。では、その願いには本当に力がないのでしょうか。その願いは瞬間的には伝わらずとも、後々になってその思いに気付くこともあるでしょう。 いや、たとえ気付かずとも自分がどうしようもない大きな壁にぶつかった時に背中を押してくれている力になることがあるのではないかと思うのです。更に、もしその願いに気付くことがあったとしたならば大きな力となるのではないかと思うのです。昔のTVで「同情するなら金をくれ」というセリフが流行しましたが、本当の願い、思いはお金以上の力を生み出すパワーを持っているように思います。

 

 新年の初詣の際に家族の安寧を願われた方も多くおられるでしょう。自分がそう思っているならば、家族もまた自分を含めた家族の安寧を願ってくれているはずです。また、私たちは思わぬ願いをかけられていることもあります。自分が仕事であったり、何かものごとをおこなうことがあれば、必ず周りに応援してくれる人がいるはずです。私たちは自分が思っている以上に他人から願われている存在なのです。ぜひ自分への願いとともに周りにある人に対する願いを願ってみてはいかがでしょうか?思いを人に向けることが自分に向けられている多くの願いに気付くきっかけとなるのではないでしょうか?

 

住職 合掌

お陰様です

新年あけましておめでとうございます。

本年も光雲寺プチ法話を続けていただこうかと思っておりますので、どうぞお付き合いくださいませ。

 

 先ほど2016年の初日の出を本堂縁側から拝ませてもらいました。光雲寺は山あいにあり、さらに本堂の向いが山になっているのでこの時期の日の出は9時頃と大変遅くなっています。新年の位牌堂への仏飯等をお供えしながら日の出を待っておりましたら、山門の上あたりから徐々に日が昇り、本堂が光で満たされてきて気持ちが清浄になるような思いでした。

 さて、そんな日の出から時間を巻き戻すこと15時間程…12月31日の午後3時頃です。光雲寺は日の同じ入りも同じく山の関係で早い時間に日が沈んでいきます。その沈む太陽を見ようと思って外に出たのですが、今年は残念ながら厚い雲で空が覆われており太陽を見ることはできませんでした。それでも雲の先にある太陽に「今年もありがとうございました」と頭を下げさせてもらいました。

この習慣を始めたのは3年前ほどからですが、始めたきっかけは人づてに聞いた話からです。以前、私の師匠から知り合いの方で毎年大晦日の夕方に決まった場所で最後の日の入りを見る方がいるという話を聞かせてくれました。初日の出を拝む方というのは多くおられますし、朝の私が感じたように初日の出の光を見ると心が洗われ、今年一年頑っていこうという力が湧いてくるように思います。『年の初めに決意を新たにする』そんな思いが初日の出にはあるのでしょう。

 それならば最後の日の入りを見るのは『年の最後にすべてのことに感謝をする』ということになるのではないかと思って始めたのです。ドタバタしていてお正月に気をとられている大晦日の夕方に一度心を落ち着かせてくれる。そんな思いで一年を振り返りながら太陽に感謝をさせてもらっています。考えてみれば太陽は一年間(どころかずっと)休むことなく照らし続けてくれています。私たちは生きている間ずっと休むことなく色々なものから貰い物をいただいているんです。一秒たりとも独りで生きている時間はないのだと思うと、最後の日の入りの時だけでも感謝の心を持っていたい。そう思った年末年始でした。

 

本年が皆様にとって実りある一年であることを祈願しております。  住職 合掌

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