ご祈祷ってホントに効くの?

 先日12月15日に私は雲水時代に修行をさせて頂いていた静岡のお寺に行ってまいりました。そのお寺では毎年この日に火防の神様である秋葉三尺坊様をお祭りする火祭りが行われており、光雲寺に戻ってきた後も5年間ほどお手伝いに伺っております。この火祭りの日にはお寺に75人もの天狗達がつどい、その天狗達に僧侶が供物をささげ、祈祷を行って人々の願いを成就させるという儀式です。毎年多くの方々にお参りいただき、厳かに、そしてにぎやかに儀式が執り行われております。

 さて、日本人にはお祈願というものが大変好きな人が多いように思います。遥か平安の時代から現代の日本まで占いや御祈願というものは生活の中に深く根付いているように感じます。実際、毎朝の新聞、種々の雑誌には必ず今日の運勢なるコーナーがあり、初詣から受験前の祈願、いろんなお守りやパワースポットなどあらゆる場面でこれらのものに出会います。全国各所の寺院でもご祈祷を行っているお寺は多くあります。私ども曹洞宗の寺院でももちろんご祈祷を行っております。

 しかしこれだけ多くの御祈願場所にお参りしている皆さんも一度はこう思ったことがあるのではないでしょうか?

「ご祈祷してもらって、本当に願いが叶うんだろうか?」

「ご祈祷ってなんか嘘くさいなぁ」

 

 実際以前のわたしもこのように思ったことがあります。というよりもずっと思っていました。科学技術が発達した現在においてご祈祷なんて眉唾ものだと思うのは当然なのかもしれません。

でも、現在の私は御祈願には大きな力がある!願いは叶う!と思うようになってまいりました。

 私が横浜のお寺で修行をさせて頂いていた時のことです。そのお寺でもご祈祷をすることが時折あったのですが、とある時にご祈祷の導師をされていた和尚さんがこんな話をしてくれたのです。

以前、オリンピックが近づいた頃にあるオリンピック選手がこのお寺にお参りに来たことがあった。坐禅体験や写経などをされに来ていたのだけれども、最後にご祈祷もされたんだ。私はその選手の金メダルを願ってご祈祷をしたんだけれども、ご祈祷が終わった後にその選手に聞いてみたんだよ。「貴方のような世界大会で何回も金メダルを獲ったことのある人でもご祈祷するんですね。神様にお願いすることがあるんですか?」と。

するとその選手はこう言ったそうです。「私は今回、自分が金メダルを獲ることを確信するためにご祈祷に来たんです。」その選手は自分自身の中にある力を信じるためにご祈祷に来たのです。その姿に和尚さんはこの人は絶対に金メダルを獲るなと確信したそうです。そしてその後のオリンピックでその選手は見事金メダルを獲得したそうです。

 

 私はご祈祷の力の一つに“潜在的な自分自身を励ます力”というものがあるのではないかと思います。先ほどの選手はもともと強い精神力を備えていた方ですから、私たち皆が同じように自身の力を確信するということはできないでしょう。しかし、ご祈祷という儀式を通すことによって自分の中にある力を少しでも信じ励ましていくことが出来たなら、そこからは無限のエネルギーが湧き出してくるように思います。

 私たちは願いを持った時になかなか最初の一歩を踏み出すことが出来ないものです。そんな時にその背中を押してあげる力…そんな力がご祈祷には込められているのではないでしょうか?

次回はご祈祷に関してもう一つ思うことをご紹介したいと思っております。

住職合掌

最期の迎え方って?②

 前回は法事での出来事から最期の迎え方とは?という質問に二人の名僧の最期を紹介させてもらいました。潔い最期か苦しみもがく最期か…。皆さんそれぞれにどのような最期が良いのかと考えられたかもしれません。しかし、私が思うにこの問いに答えはないのではないでしょうか?もちろん自身の希望というものはそれぞれにあることでしょう。私自身も希望の最期の迎え方というのでは潔いほうが良いに決まっているように思います。

 どうして最期の迎え方を望み考えていくことに答えがないのかといえば、私たちは最期の瞬間を自身で選ぶことなどできないからです。私は住職になってから幾人かの方々を見送らせて頂きましたが、誰一人として同じように亡くなった人はおられません。皆さんそれぞれの時にそれぞれの姿で旅立って行かれましたし、見送る側の人の姿もそれぞれでした。急な方もいれば大往生される方、穏やかな方など様々おられて誰一人予定通りに最期を迎えた人などいませんでした。昨今は終活という言葉が流行っており、自分の最期や自分の死期のことまでも準備することが良いことのように言われています。しかし、私たちは決して未来を思い通りに選ぶことはできない―これは変わることのないこの世の真理です。そう考える仏教では最期の迎え方の良し悪しを考え悩むことは安楽の道から外れることになってしまうのです。もし普段の生活が伴ってない人が禅師様と同じように「喝!」と言って亡くなったとしても禅師様の時のように周りの人が感銘を受けることはないでしょうし、決して安楽を得ることもできないでしょう。

 このように言ってしまうと冷たく無責任のように感じる方もおられるかと思います。たしかに私たちは未来を選ぶことができません。しかし、私たちには未来へと向かう人生の道のりを選択することはできるのです。そして、この道(今)をどう歩んで行くかということこそが仏教の一番大切なところであり、ここに仏教の希望に満ちた光があるのだと私は思います。未来を見ることも、選ぶこともできないものばかりのこの世界の中で、いま自分に与えられたこの体だけは自分の意思で動かす事ができるのです。その体でもって全霊で正しき道を歩んで行くことが長い人生という道のともし火となってくれるのです。ご紹介したお二方は対照的な最期ではありましたが、その生きざま、人生の道のりは共に後世に名僧として語り継がれ、今の私たちにその生き方を示してくれています。

 最後に良寛さんが残された詩をご紹介させてもらいます。苦しみを隠さずにいた良寛さんにお世話をしていた貞心尼という方がたずねます。「貴方様のような素晴らしい僧がどうしてこのように苦しみをさらけ出すのでしょうか?」良寛さんは答えられます。

 『うらを見せ おもてを見せて 散るもみじ』

(私は人生の長所も短所も全てを見せて、今まさにもみじのように散っていくのだよ。というような意味です)全身全霊で人生をつとめてきた良寛さんだから喜びも苦しみも含めて歩んできた道すべてが自分の人生なのだと伝えられたのではないでしょうか。最期の瞬間は今生きているこの瞬間の延長であることを心して生きていきたいものです。

住職 合掌

最期の迎え方って?①

 先日、とある法事の席でこんなことがありました。年忌の法要が終わって、一緒に食事をいただいていた時です。六十代半ばの男性の方が「和尚さん、実は私は四年ほど前にガンが見つかって病院の先生から余命一年と宣告されたんですよ。それでも治療が体に合っていたのか四年経った今でもどうにかやっている状態なんですよ。」元気そうに見えた男性でしたので正直びっくりいたしました。続いて男性は続けます「私は病院の先生に余命一年と言われた時にはすごいショックだったんです。それでも、どうにか自分で納得して、腹をくくって死ぬことが怖くないようになったんですよ。それが、四年経って生活を続けてるとまた死ぬのが怖くなってきてしょうがないんですよ。人間やっぱり死ぬのが怖いんですね。」そんな心の内を話してくれました。その後に続いた質問に私はドキッとしてしまいました。「ところで、私は和尚さんが同じようになったらばどうなるのか見てみたいなぁ。」すこし冗談っぽく言われた言葉でしたが、僧侶である私たちへのストレートな質問であったように思います。その時には「うーん、難しいですね・・・私でもやっぱり死ぬのを怖がると思いますよ。」としか答えることができない私でした。

 帰りの車の中で先ほどの質問のことを考えていた私の頭の中に浮かんできたのは以前読んだ本のことでした。それは二人のお坊さんの人生の最期の迎え方の話です。一人目は永平寺の禅師様(永平寺の住職さん)の最期の姿です。その方は御年九十六。亡くなられた日も午前中には頼まれた書の揮毫をされていたそうです。お昼前に体の不調を訴えられて横になり、夜半に目を覚まされて見舞いの人と話をされて自身でお水を飲まれたそうです。そしていよいよ最期を迎えるというときに「喝!」と叫ばれて自身に引導を渡されて息を引き取られたというのです。その姿はまさに禅僧の最期に相応しいドラマチックなものであったというのです。もうお一方は良寛和尚さんです。江戸時代のお坊さんで、若き日には厳しい修行をつとめられ、老いては民衆に寄り添って生きてこられた名僧です。この良寛さんはというと晩年病を患って床に伏しておられたそうです。そして、その時の苦しみや寂しさを赤裸々にいくつかの詩にして残されているのです。そして最期を迎える際には「まだ死にたくない」というような言葉を残されたのだそうです。

 さて、皆さんは一人目の禅師様と二人目の良寛さんのどちらの最期の迎え方が立派に思うでしょうか?多くの人は前者の禅師様のような最期を迎えられればいいと思うのではないでしょうか。私自身も禅僧としてそんな最期にあこがれるようにも思います。では、仏教の視点から見るとどちらが良い最期の迎え方なのでしょうか?

 

つづく

いただきます

「いただきます」

みなさんも食事をする時には手を合わせて声に出されるかと思います。子供の頃から教わってきた言葉ですが、このいただきますの前にはカッコがあって、(生命を)いただきますというのが正式なのです。他の生き物の生命をいただくことに感謝し、私たちはいただいた生命を活かしていくように心がけますというような意味が込められたお唱えごとなのです。しかし、出来あいの食材を買うことができ、外食が普通の時代ではなかなか生命をいただくという感覚は薄くなっているようにも思います。

 私には現在3ヶ月になる子供がいるのですが、この3ヶ月で体重は約2500グラムも成長しました。この間赤ちゃんの姿を見ていて一番驚いたことは3ヶ月間母親の母乳のみで大きくなっていることです。先日講演会を聞きに行った際に一日に赤ちゃんが飲む母乳の量が1リットル近くにもなるという話を聞いて更に驚かされました。この母乳の元は母親の血液が変化したものだといいます。母乳を飲み続ける約一年間はまさに自分の血を、自分の命を子供に分け与えているのです。そんな姿に生命の尊さを感じさせられる体験でした。

 私たちは人生の始まりである時期に生命をいただく大切な経験をしてきているのです。しかし、徐々に成長していき色々な食べ物を摂るようになると(生命を)いただいている、自分が生かされているいるということを忘れてしまうのではないでしょうか。いま一度自分の命が他の生命によって支えられていることを見つめなおしてみてはいかがでしょうか。

住職 合掌

 

お坊さんの頭はツルツル

「お坊さんはなんで頭ツルツルなの?」

お子さんからいただく最も多くて最も素直な質問です。坊主頭という言葉が普通に使われるくらいにお坊さんの象徴といってもいいのが剃髪した頭だと思います。それではなぜお坊さんは剃髪をするのでしょうか?

 

 お釈迦様が生まれた時代のインドにはすでに多くの修行者たちが居たといいます。その修行者達は社会の枠から出たということを表す為に髪の毛を剃っていました。日本人もかつて多くの人がまげを結っていたように、昔のインド人も男女それぞれに一般的な髪型があったのでしょう。その中で髪を剃るという事は大きな意味を持っていたようです。王族の生まれであったお釈迦様は王族の立場を捨てて一人の人間として道を求める決意の表れとして剃髪をされたのでしょう。それ以降弟子たちはお釈迦様をならって髪を剃るようになっていったのです。

 最近は街を歩いていても髪を剃っている人を多く見かけるようになって来ました。すれちがった一瞬「この人はお坊さんかな?」と思ってしまいますが、そうではない方が多いようです(笑)。坊主頭も最近ではお洒落なファッションになってきたのかなとは思いますが、以前は坊主頭とお洒落とは無縁であったように思います。それはかつてのインドでも同じようだったようで髪はお洒落の象徴であったようです。修行僧はお洒落な髪型、お洒落な服を着ることは修行の妨げになると厳しく禁じられていたのです。 

 

 また、私たちは髪の毛を煩悩の象徴として扱うことがあります。残念ながらどんな人でも生きているだけで様々な煩悩が湧いてくるものです。これは人間として避けられないものですが、その煩悩を野放しにしてしまうと雑草で覆われた庭のように頭と心の中が荒れていってしまいます。煩悩の草をこまめに摘んでいくことが穏やかな生活を得る為には大切なのです。同じように爪や髪の毛もまた自然と伸びていくことから、爪や髪を定期的に整えていくことは自分を整えることの象徴となっているのではないでしょうか。

 修行道場では4と9の付く日(4、19日など)に髪の毛を剃ることが決められています。5日に1回のペースで髪を剃るのですが、4日目くらいで髪の毛が伸びてくると不思議と心に緩みが出てくるのです。それが5日目に髪の毛を剃ると心もシャキっと引き締まるのを感じます。私は髪を剃る時が一番僧侶であることを自覚する時のように思います。そして、髪を剃った自分を鏡で見て僧侶としてしっかりしなければと気合を注入してくれます。

 お坊さんの頭は道を求める自覚や自分の中にある弱さを見つめる事の表れだと私は思うのです。皆さんも心や生活を整えるきっかけとして、爪や髪の毛、身だしなみなどを整えるところから気をつけてみてはいかがでしょうか?

 

住職 合掌

きのこアイ

みなさんキノコはお好きですか?

 

 椎茸 しめじ 松茸等々、日本の食卓に欠かせない食材ですね。私はそんなキノコを大学生の頃に勉強していた時期がありました。学校の演習林に入っては山中を歩き周り様々な山のキノコを採集したものです。しかし、このキノコ採集はなかなかやってみると難しいもので、初めの頃はいくら探しても見つからないんです。それなのに一緒に探している先輩は次々と見つけていくのです。同じ場所を探しているのになんで自分は見つけられなくて先輩は見つけられるんだろう?と不思議に思っていました。それが何度も何度も採集に行っているうちに次第に私も森の中でキノコをすぐに見つけられるようになってきました。私がいた研究室ではこのように森の中でキノコをすぐに見つけられるようになることを『きのこアイ(Eye=目)』と冗談で命名して呼んでいました。

 

 ところでわたし達人間には凄い能力があるのをご存知でしょうか?私たちは目、鼻、耳、口、触覚など様々な感覚器から莫大な量の情報を得ていますが、その中から必要な情報を脳の入り口で選別して私たちの頭に送ってくれているのです。全ての情報をそのまま送ってしまうと私たちの頭は膨大な情報を処理できずに混乱してしまうのです。無意識かで私が何を必要かを判断して情報を選び出してくれるのです。私達が『きのこアイ』と呼んでいたものも森の中の様々な情報のなかからキノコを無意識に選びだす能力の事になるのでしょう。探しているものが別のものならば『花アイ』、『虫アイ』など様々あるのでしょう。

 

 この能力は非常に素晴しいものではありますが諸刃の剣ともいえます。自分の関心のあることはよく見えるけれども、関心がないことは興味も示さない。あるいは人の悪いところばかりは見えるのに人の良いところは目に入らない。私たちは目に入っていても、耳で聞いていても気付かずにいるということがあるのです。特にさり気なく、何気なく行われる周囲の人々の想いや親切には見逃しがちなものです。

 

 わたし達の脳は全てを気付くようになっていないのですから、全ての想いや親切を気付き感謝しなさいとは言いません。でも、その良いことがらに気付けたならば・・・気付けずともそんな良い思いが自分の周りには沢山あるんだと思うことが出来たならば・・・より豊かな心を持つことが出来るのではないでしょうか?

住職 合掌

お盆②

 昨日8月13日は迎え火を焚いてご先祖様をお迎えする日でした。光雲寺にもお墓参りに来ておられる方が何人も見られました。お盆のお墓参りは帰省した方、特に子供さんが多くお参り下さるのでご先祖様も私も大変うれしく思っています。

 さて、このお盆はゴールデンウィークにならんで多くの人達が里帰り・家族旅行など動き回る期間かと思います。家族どうしが離れて暮らすことの多くなった現在の日本においては特に大切な時間なのかもしれません。しかし、最近は少し「お盆」部分が薄れて「大型連休」という要素の方が強くなってきているようにも感じます。夏の連休ですから楽しみたいと思うのもたしかにそうではありますが、お盆という期間を是非とも感じてもらいたいものです。

 私は祖父が僧侶ではありましたがお寺で育つことはなく子供の頃には他の子達と同じように育ちました。ですから、普段の生活の中に仏教的要素が多くあったとは思えません。また、出家をした26歳まで仏教については学校の授業以上のことをならったこともありませんでした。ですけれども家族(自分自身も)は仏教徒であったわけです。これは大変不思議なことだと思っていましたし、これを読んでいる方も不思議なのではないでしょうか?自分は仏教徒にも神道にもなった記憶はないのに、家に仏壇があるから仏様に手を合わせ、神社に行けば手を合わせる・・・本当に不思議なことだと思います。キリスト教では必ず洗礼を受けて自分の宗教に自覚を持つといいます。日本人のような無自覚の宗教心は他宗教からみても不思議なことなのだそうです。

 とある僧侶の方がこの無自覚の宗教心についてお話をされていたのを聞いた事があります。そして、無自覚の宗教心の源にあるものを『日本語』と『年中行事』であると言われていました。日本ではお正月から除夜の鐘まで様々な年中行事が行われていますが、その数は非常に多くて海外から来た方も驚くほどだといいます。そして、その行事の多くには神仏、あるいはご先祖様に感謝し敬うことが本質としてあるのです。また、私たちが普段使っている日本語もまた、その多くに神道・仏教由来の言葉が多く含まれているのです。私たちは年中行事を子供の頃から体験し、普段から何気なく仏教用語を使うことによって知らず知らずのうちに日本人的宗教心(←造語です)を学んでいっているといってもいいのではないでしょうか。

特にお盆行事は仏教だけでなくご先祖さま・家族親戚、そんな多くの関わり合いの中にある行事です。この期間を大切に過ごすことは大きな実りを得ることになるのではないかと私は思うのです。是非この時間を大切に・・・そして、年中行事というものの価値をもう一度見直してみる機会にしてもらえるとありがたく思います。

住職 合掌

お盆①

 7月も終わりが近づきあついあつい8月がやってきますね。子供達は夏休みに入って遊び回っている頃でしょうか?そして8月に入るとお盆休みが待っています。実家に帰られるかた家族旅行に行かれるかた、はたまたお盆中もお仕事のかたと様々かとは思いますがお盆は国民的休日として一大イベントかと思います。

 さて、お盆休みは知っているけどお盆がなんなのかわからないという方は多いのではないでしょうか?今回は少しお盆について説明させていただこうかと思います。※お盆と一言でいっても実は一様ではないんです。全国地方それぞれに風習があり、おこない方も日程もそれぞれ違ってきます。ここでの説明は私の地域のものと了承ください

 お盆の起源は幾つか説があるようですが、もともと日本にあった土着の先祖供養と仏教が融合して今の形になっていったのではないかと思われます。お盆は正式には盂蘭盆会(うらぼんえ)と呼びます。このうらぼんは『ウランバナ(逆さ吊りの苦しみを救う)』とも『ウルヴァン(霊魂)』の音写とも言われます。この教えが日本土着の器(盆)に米や野菜等を盛って先祖にお供えする風習と融合したと考えられるのです。

この盂蘭盆会には有名なエピソードがあります。お釈迦様の弟子に目連尊者という高名の修行僧がおられました。その目連尊者の亡きお母さんは生前非常に優しく、大切に目連尊者を育てた人でした。ある時、目連尊者は大好きだった亡きお母さんに会いたいと考え神通力を使ってあの世の世界へと向かったのです。訪れたのは極楽世界 どこにお母さんがいるのかと探し回りますが・・・・・・どこにもお母さんの姿はありません。まさかと思いながら目連尊者は苦しみの世界を訪れることにします。その中の餓鬼界・・・・・・するとそこには亡き母の姿があったのです。餓鬼界とは食べること飲むことも出来ない苦しみの世界です。苦しむお母さんに目連尊者は食べ物をあげようとするのですが、お母さんが食べ物を口に運ぼうとすると食べ物は燃えて灰になってしまいます。その姿をみた目連尊者は大きな悲しみを感じ、現世に戻りお釈迦様にこの出来事を話しました。お釈迦様はその話を聞きこのように話をされました。

「あなたの母はたしかに優しい人であったでしょう。しかし、あなたの母は目連ばかりに愛を注ぎ、その横で困っている人々の事が目にはいっていなかったのです。自分の子供以外には物や愛を惜しんでいた為に餓鬼界へと行くことになってしまったのです。目連尊者よ、もしあなたが多くの人に施しを行えば母は救われるでしょう」と。

 目連尊者はお釈迦様の教えに従って、インドの7月に多くの人々(三界万霊)に食べ物を布施し供養したのです。そして、その功徳によってお母さんは餓鬼界から救われたのです。この7月に供え物をするという習慣が今のお盆の風習の起源なのです。

 この教えは現代にも通じるものではないでしょうか?モンスターペアレントという言葉が少し前に流行りましたが、自分の子供のみを可愛がるあまり周りの事が見えなくなってしまう事が往々にして起こってしまうのです。自分の子供が可愛いのは当然のことです。でも、隣にいる子供もまたその親にとっては大切な宝物なのです。その事を心の片隅においておけば大きな間違いは起こらないのではないでしょうか?私たちは一方面から見た世界が世界の全てと思ってしまうものです。しかし、私たちが見ているのは世界のほんの小さな部分だけだということに気付くことが“本当の優しさ”へのスタート地点なのです。

 

お盆日程(この地域です)

(8月)7日盆入り

   13日 迎え火

   15日 お盆中日

   16日 送り火

   24日 地蔵盆

貧と貪

先日本屋さんに行く機会があり、店内をうろうろと見て回っておりました。私は書店に行くとよく絵本コーナーを見に行くんです。お子さんがおられる方は度々訪れる方も多いでしょうが、多くの大人はさほど興味を持っておられないのではないでしょうか。絵本というものは非常に力を持っていて時に心にスッと入ってくる一冊に出会うことがあるのです。シンプルで直球な言葉は、難しい講義や私のような下手な説教(笑)を何時間も聞かされるよりも心に語りかけてくるものがあります。

今回の絵本コーナーでは2つの本が目にとまったのですがその1つをご紹介できればと思います。「世界でいちばん貧しい大統領のスピーチ」というタイトルのこの絵本は実際の国際会議の場でウルグアイのムヒカ大統領がおこなったスピーチをそのまま絵本にしたものなのだそうですが、世界に生きる私たちが何を大切にし、何を求めて生きていくべきなのかを問いかけています。細かい内容についてはそれこそ実際に絵本を読んでいただくのが一番かと思いますので説明は控えさせていただきます。

今日は絵本のタイトルにもある“貧”という言葉についてお話させていただこうかと思います。絵本のタイトルを初め見た時に私はこの貧しいというのは、この国が貧しいということなのかと思っていました。しかし、スピーチの中で「貧乏な人とは、少ししか物を持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」と言っています。

道元禅師は「学道の者はすべからく貧なるべし」という言葉を口をすっぱくして言われておられます。この言葉を聞いた時に最初は、お坊さんは財産を持ってはいけないし、贅沢な暮らしをしてはいけませんと言われているのかと思っていました。あるいは、修行僧にはそれくらいのハングリー精神が無いと駄目だと言われているのかとも思っていました。しかし、道元禅師はまた別のところで「布施というは貪らざるなり」という言葉を使われています。この「貧」と「貪」という言葉はまさに大統領のスピーチの意図するところと一緒のことを言っているのだと思うのです。この2つの漢字を分解して見てみると貝の上にそれぞれ『今』『分』の字が乗っかっています。硬貨が出来る以前は貝がお金として使われていたことから貝はお金を意味します。今という字はフタを意味し「お金にフタをして自分のものにする」という意味になります。一方、貧は「お金を分け与えて分散する」とい意味になるんだそうです。つまり、貧なるべしという言葉は、まずしく生きろということではなくて、分け与えつづける生き方をしなさいという教えなのです。そして本当に怖いのは、次から次へと欲しい欲しいと欲望がおさえられずに貪欲の世界に堕ちてしまう事なのです。

『世界で一番貧しい大統領』とは自分のもち分をわきまえて、それ以上のものは皆に与えて喜びに変えることが出来ている大統領なのだと思うのです。これは決してお金だけの問題ではありません。物であっても食べ物でも言葉でも・・・本当の喜びとは、本当の幸せとはなんなのか。それを考えさせられる一冊との出会いでした。

住職 合掌

本当の自分の言葉って??

 先日お坊さんの勉強会があり、その中で老師による提唱(仏教についてのお話)を聞かせていただきました。その内容は達磨大師と中国の皇帝との問答についてだったのですが非常に心に残るお話でした。(内容については僕ではうまく説明できません・・・スミマセン)

 その問答とは、皇帝が「自分は仏教について大変勉強し、多くの寺院を建ててきた」と言います。しかし達磨大師はそれは本当の仏教ではないと返します。

 この問答を老師は“借り物ではない自分自身の言葉”という表現で解説してくださいました。私たちは話をする時に「誰々から聞いたことなんだけど」とか「これこれの本に書いてあったんだけど」といって話をすることが多いのではないでしょうか?更には無意識に周りの人から聞いた話を自分のことのように話してしまう・・・。私たちが自分の意見と思っていることも実は借り物の意見であるということが多くあります。私たちが使う言葉に知恵という言葉ありますが、これを仏教では智慧という漢字を使います。2つの違いをみてみると、知という字は知識に表されるように頭に入っている有用な情報をいうのでしょう。それに対して智という字は物事の本質を明らかにするという意味です。物事の道理がしっかりとこの身についていることをこの漢字は表しているのです。

 テレビのクイズ番組では物知りの人達がその知識を争っていて、その知識量にいつも驚かされます。そして自分もこれくらい物知りになりたいなぁと思うんです。でも、知識をいくら蓄えたとしてもそれを身につけ活かすことが出来なければ本当の意味での智慧にはならないのだと思うのです。考えてみると私たち僧侶も時として仏教を紙の上で捉えてしまいがちです。お経や仏教書を読んでわかったような気になってしまうことがあるのだと思うのです。実際に生きている人間、自分自身が本当に心穏やかに過ごすためにはどう生活していけばよいのか、それを身をもって学んでゆくことが大切なのだと痛感させられた勉強会でした。

住職 合掌

手のシワ

私の好きなマンガに「風の谷のナウシカ」というマンガがあります。映画はもちろん、原作マンガも買って何度も読んだものです。その中で印象に残ったシーンがあります。それは風の谷の住人である老人が敵国の王女に自分の手を見せて 「この手を見てみくだされ。ジルさまと同じ病じゃ。あと半年もすれば石と同じになっちまう。じゃが、わしらの姫さまは、この手を好きだと言うてくれる。 働き者のキレイな手だ、と言ってくれましたわい」と言うのです。老人と主人公のナウシカの温かい関係が感じ取れるワンシーンです。

 

以前お寺にお参り下さった方とお話をしていた時の事です。八十歳をこえた男性だったのですが、ふと私の手を見られてこう言われたのです「方丈さんの手はきれいだねぇ、わしの手を見て下さいいね。ガチガチでゴツゴツの手ですいね。」その方とは何度も話をしていたのですが手を見た事はなく、その時始めてその方の手をじっくりと見せていただきました。光雲寺は山口県の山間部にあり昔から林業に携わる方の多い土地柄で、その方も若い頃から山に入っては木を切る仕事を続けてこられた方でした。機械の増えた今の時代でも林業という仕事は厳しく、根気のいる仕事です。それが六十年も前には大型機械などはなく、全て人の力で林業は行われていたのです。今のような性能の良い手袋もない中で作業を続けてきた手は、表面が石のように硬くまた、手の平には深いしわが刻まれていました。手が綺麗と言われた私ですが、どこか恥かしさを感じる出来事だったのです。その出来事以降、出会う人達の手をちょこちょこ見るようになった私ですが、団塊世代くらいの方あたりから手の表情が変わってきていることに気がつきました。そして私たちの世代の手ではみんな柔らかくツルツルした綺麗な手をしている人ばかりです。一見ゴツゴツした手よりもツルツルした手の方が良く見えますし、私自身も手はツルツルしているほうがいいなとも思います。しかし、ゴツゴツした手は見た目ではない美しさを持っているのではないかと思うのです。その手のしわ一本一本に長い人生でのひとつひとつの思い出が刻まれているように思うのです。

 人が亡くなられた時、私はその方の顔をじっくりと見させていただくようにしています。私たちは生きている時に人の顔をじっくりと見る事はあるでしょうか?夫婦や自分の子の顔ならば多少は寝顔で見た事はあるかもしれません。しかし、自分の親や親友でさえ見ることはないでしょう。顔を正面から、どんなしわが刻まれているのか・・・その顔をじっくりと見ると思いもしなかった表情を見る事が出来るかもしれません。そして自分自身の顔にはどんなシワがあるでしょうか。私はできればシワが出来ている場所は眉間のシワであるよりは目尻の笑いシワでありたいと思うのです。

 シワというものは良くも悪くも一朝一夕で出来るものではありません(笑) 仏教の目標は良い習慣を身につけることです。それは長い人生でシワが刻まれるようなものだと思うのです。私たちの生活の中に良い習慣をシワのように刻んでいく。そのように日々つとめていきたいものです。

住職   合掌

ブッポーソー③

2015/5/29

 仏法僧について書いてきたこのシリーズも最後となりました。どうぞもう少しだけお付き合いくださいませ。

 みなさんは「僧」イコールお坊さんと思っておられるのではないでしょうか。  え?ちがうんですか?と聞かれると、まぁ実際はほとんどイコールになっているとは思います。でも、イコールだとすると僧宝とはお坊さんを宝として大切にしなさいということになります。僧侶である私としても、やはりこれには違和感を覚えます。では、僧とはなんなのでしょうか?僧という言葉の由来を見ていくと“サンガ(僧伽)”という言葉に行き当たります。このサンガとは集団・組合を指す言葉でもともとはお釈迦様と志を共にする修行者集団を意味するのです。お釈迦様という方はこのサンガを非常に大切にされた方です。お釈迦様には多くの弟子がいたとされていますが、本当はお釈迦様には弟子はいなかったという話を人から聞いたことがあります。お釈迦様は人を呼ぶ時には必ず「友よ・・・」と語りかけられたと云うのです。決して上下関係ではなく同志として歩まれたというのです。私が修行に行った修行道場で使う言葉の中にも私が好きな言葉“大衆の威神力”があります。一人であったならば心が折れてしまうような修行であっても、大衆(修行仲間)と共に進めば大きな力が生まれて必ず乗り越えられるという言葉なのです。

 私たち人間は必ず多くの縁によって支え、支えられているものです。それは家族・地域・社会、人それぞれかもしれませんが決して自分一人で生きている人は存在しないのです。その中で共に同じ方向を歩いてくれてる仲間がいることはどんなに心強い事でしょう。いくら仏と法が存在していても、それを行う仲間がいなければ仏教とはいえないのです。仏にあこがれ、法を信じて、僧と共に歩んでいく。これこそが仏教の真髄なのだと思うのです。私たち僧侶もこのことを大事にして、皆さんと手を取り合って歩いていくことを心がけなければならないのだと反省させられます。

 三回に分けて仏法僧についてお話させていただきました。仏教の基本的な部分は決して難しいものではないことが伝わったとしたらうれしく思います。いま、地域のつながり、人のつながりが弱い時代と言われます。今こそお寺が地域の、仏教が人々のかけ橋となる可能性を秘めたものであると信じております。

          住職  合掌

ブッポーソー②

2015/5/14

 

だ~るまさんがこ~ろんだ~!真っ赤でまぁるい体のだるまさん。片目に願をかけて、もう片目に成就を感謝する。子供の頃から節目節目に登場するのがだるまさんです。一つのキャラクターのような存在のだるまさんですが、このだるまさんは菩提達磨大和尚という実在のお坊さんなのです。なんとだるまさんはインドにある国の王子様で、中国へと禅を伝えた禅宗の祖なのです。私自身もだるまさんは日本人か中国人だと思っていたので驚いたものです。

 このだるまさんの“ダルマ”とはサンスクリット語で「法」という意味の言葉からきています。前回は仏法僧の「仏」が師でありあこがれであると書きました。続いての「法」は実際に私たちが歩むべき道と言ってもいいでしょう。私たちは師の姿を見習い学んでいきます。しかし、ただ後ろ姿を真似て後ろをついてゆくばかりでは自分自身の成長というものはありません。後ろ姿を見ながら習う中で、その芯となるものを体得してそれを自身の芯としていくことが必要なのです。お釈迦様が亡くなられる直前に常にそばにいた弟子アーナンダはうろたえながらお釈迦様に尋ねられます「お釈迦様が亡き後、私たちは一体何を支えとしていけばよいのでしょうか」と。お釈迦様は「私亡き後は、よく調えられた自己と法を支えとして進みなさい」と答えられたのです。(※自灯明・法灯明の教え)

 仏教での法とは諸行無常・諸法無我・一切皆苦というこの世界の真理を知り、受け入れ、自身の行いを正しく調えていくことで苦しみから離れることです。この世界では全てのこと(良い事も悪い事も)が自分の思いとは別に働いているのです。ですから人生うまくいかないことばっかりと思うことは普通なのです。でも、そこで自分の歩みを止めてしまうことは自分を大切に出来ていないことになるのです。自分の身体と心だけは自分の意思で動かすことが出来ます。その自分自身を大切に調えて精一杯をつとめていくことこそが「法」を信じていくことだと思うのです。そして「仏」と私をつなぐ道、その道を歩んでいく私の後にできる道こそ「法」であると思うのです。是非自分自身を法の道に乗せ、その道を信じて進んで行きたいものです。

                                  住職 合掌

 

ブッポーソー①

2015/5/1

 

皆さんは『ブッポウソウ』という鳥をご存知でしょうか?美しい緑色の身体と赤色の口ばしをした綺麗な鳥なのですが、古く平安時代の頃から森に住む霊鳥として敬われてきた鳥です。その美しい姿もさることながらブッポウソウという名前の由来ともなっている「ブッポウソウ=仏法僧」という鳴き声が仏教信仰と重なって尊ばれたのです。※なんと昭和初期にこの鳴き声はコノハズクというフクロウの仲間の声だったことが判ったのです。何百年と勘違いされていたのだそうです(驚)。

 

 さて、この『仏・法・僧』は三宝とも言われ大切な宝として仏教の最も根幹にあるもので、この仏法僧無しに仏教は存在しないのです。お釈迦様はお覚(さと)りをひらかれた後その教えを広く伝えていきました。そして多くの弟子や信者が出来てきたのですが、それらの人が仏教徒となる際に必ずお誓いしたことがらがあります。それは五つの約束事(五戒)と三宝に帰依(尊重し敬う)することだったのです。このお誓いを行えばどのような人達であってもお釈迦様は仏教徒として受け入れていかれたのです。ですが、皆さんに「この仏法僧は仏教の大切な宝だから大切にしなさい」と言ってもぼんやりしたものではないでしょうか?これから三つの宝についてひとつずつ紹介していければと思っています。

 

 『仏』とはお釈迦様・仏様の事です。仏教だからお釈迦様・仏様を敬うのはあたり前と思われるでしょう。でも仏様を敬うとはどういうことでしょうか?私はこの『仏』を“あこがれ”という風に受け取るようにしています。

 私たちはお寺や神社にいったら必ず手を合わせて拝みますが、私はそれには二つに意味があるのではないかと思います。一つには感謝の意味です。私たちは多くの力(神仏・自然・人との関わり等)に支えられて生かされています。その事に感謝をするために手を合わせるのだと思います。もう一つは仏様、ご先祖さまのお背中をに手を合わせて見習わせていただく為ではないかと思うのです。人間の赤ちゃんは生後七ヶ月ころから両親の姿を見ながら真似を始めるそうです。また、子供達と遊んでいるとまねっこ遊びが大好きなのがわかります。子供は様々なことを真似しながら成長し、大人へとなっていきます。“学ぶ”と“真似る”は同じ語源というように私たちは真似をしながら学んでいくのです。私はご法事等で皆さんに手を合わせて頂く時には「ご先祖さまの背中に手を合わせてください。手を合わせることで背中を押してあげてご先祖様が仏様になってくださるのです」とお伝えしています。仏様の善き姿に対してあこがれの心を持つことが大切なのだと思うのです。

 また、この一生のうちに心の底から尊敬できる先生・師匠に出会えることが私たちの最大の幸せなのではないかと思うのです。尊敬できる人はいますか?というアンケートをしたところ半数以上の人が“尊敬できる人はいない”という結果が出たというのを見ました。私たちは一生という長い時間の中で、自分がこうなりたいという目標をもつことができなければ羅針盤なく波の上を漂う船のようになってしまうのではないでしょうか。皆さんはその時々の風、流行に流されて右に左にフラフラしてしまってはいませんか?自分自身があこがれ、近づきたいと思う人を持つ事は人生を変えてくれるものだと思うのです。曹洞宗の開祖の道元禅師は「正師を得ざれば学せざるに如かず」と云われ、正しき師を求めることの重要性を度々述べられています。

仏法僧の仏とは、私達が見習うべき目標といってもいいのではないかと思います。少しで少しでも仏様の姿に近づいていきたいという思いを持ち続けることが仏教を学ぶ上での基礎となるのではないでしょうか。

住職 合掌

仏教とはなんなのでしょ?

2015/4/19

 

今日から仏教について住職の小話をわずかづつ書いていこうと思います。

 

仏教は約2500年も前にお釈迦様が生老病死という四苦に悩み、それを乗り越える答えを求めて修行を重ね、気付かれたたことを弟子たちへと伝えてくださったものです。そしてその教えはインドから中国を経て日本へと伝わり現在の私達にも脈々と受けつがれてきたのです。

最近は仏教は”古臭い”、”なんか難しい” というような思いをもっておられる方が多いように思います。しかし、お釈迦様の教えは遠くにあるわけではありません。私達の普段の生活の中のちょっとしたところに隠れていて、それに気付くことこそが生活を心豊かにしてくれるものなのです。仏教は気付きの宗教とも言われ、私達が日常生活の事柄一つ一つに注意して、その中に仏様の姿を見つけ気付いていくことができれば、それこそがお釈迦様の教えをたもっていくことなのです。

日常に隠れたお釈迦様の教えを少しでも皆さんにお伝えすることができれば幸いです。

            

                          住職 合掌

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