願いの炎

 気が付くと今年も残すところ10日程となりました。年を取るごとに“光陰矢よりも早く身命露よりも脆し”という教えが身に染みてくるように感じます。皆さまはこの一年間を悔いなく過ごすことができたでしょうか?

 

 さて、わたくしごとではありますが毎年12月の第2週目に修行時代にお世話になった静岡県のお寺に伺わせていただいております。12月15日の夜に行われる秋葉の火祭りのお手伝いで伺うのですが今年もまた行って参りました。今年も無事に火祭りをお勤めすることができたのですが、残念なことにこの10年ほどでお参りの方の減少を実感しるお祭りとなってしまいました。参拝客や御祈願に来られる方が減っているのはそのお寺だけではなくて全国的に減ってきているのだそうです。時代の変化と共に御祈願、神頼みというものに力を感じないという人たちがふえているのでしょうか。

 「神頼みしても御祈願してもそんなの気休めでしょ?神仏なんていないものに頼るって変でしょ?願って宝くじが当たるわけではないでしょ?」そう言われる方もおおいのではないでしょうか。

 

でも、私は神仏へのお参りや御祈願神頼みというものは必ずしも叶うことが結果ではないと思っています。

「願ったら必ず成就するわけではないが 願わねば最初の一歩は踏み出せないし願いを成就させることはできない」と思うのです

 

仏教には四弘誓願文というお経があります。

衆生無辺誓願度 (救うべき人は限りないが誓ってこれを救おう)

煩悩無尽誓願断 (煩悩は尽きることないが誓ってこれを断とう)

法門無量誓願学 (仏の教えは沢山あるが誓ってこれを学ぼう)

仏道無上誓願成 (仏道の道は遠い道であるが誓ってこれを成し遂げよう)

 

決して完璧にできるわけではないけれども常に心のうちに願いを持ちつつづけることの大切さを教えてくれています。心のうちにある願いの炎が消えた時に私たちは目標を失って迷いの道に入ってしまうのです。願いの炎に燃料を継ぎ足してあげるのが参拝であり御祈願なのではないでしょうか。

参拝や御祈願が増えることは人々の心に願いが満ちていることだと思っています。願いの炎が消えかけている現代社会が心豊かな社会へと向かってくれることを切に願っております

住職合掌

幽霊と坐禅・・・?

 

 台風と共に冬がやってきたのか今朝は今年一番の冷え込みでした。このまま冬に突入していくでしょうか。それともまた暖かさがもどってくるでしょうか。

 

 今回の小話の題名は「幽霊と坐禅」ですが、はて、幽霊と坐禅になんの関係が?

 皆さんが幽霊と聞いて頭に思い浮かべる姿はどんな幽霊でしょうか?若い人だとアニメのような可愛らしいお化けを思い浮かべる方もおられるかもしれませんが、私が幽霊と聞くとやはり白い着物で頭に三角の被り物をした(天冠という名前なんだそうです)髪の長い女性の幽霊を思い浮かべます。日本画でも昔から沢山の幽霊が書かれていて、古今問わず人々は幽霊やお化けが好きなんだなぁと感じさせられます。その幽霊の絵を書いたり幽霊の真似をしようと思ったときに私たちはどんな風にするでしょうか。幽霊のこんな特徴を意識して書いたりまねたりする人が多いのではないでしょうか。それが「髪が長い」「猫背で手が前に垂れている」「足がない」という三つの特徴です。実はこの三つの特徴はお化けのあり様を表しているキーワードなんです。

 一つ目の特徴「髪が長い」ですが、幽霊の絵では多くが長い髪を後ろに垂らした姿が描かれています。これは過去に未練を感じて後ろ髪を引かれている状態を表しています。この世への恨みや未練があるから成仏できずにこの世をさまよう幽霊になってしまっているのです。二つ目の特徴「手が前に垂れている」ですが、幽霊は猫背で手を招いています。手に入らないものをねだる姿、未だこない未来にしがみつく姿を表しています。三つ目の特徴「足がない」のは地に足がついていない、死んでしまったのにそのことを受け入れることができずにいる。現在の自分を直視して受け入れることができていない姿を表しています。つまりこの幽霊の姿は迷いの中にいる人間の特徴をまとめたもので、過去も未来も現在をも直視していない人間の弱さを巧みに表現しているのです。

 その幽霊の姿と真反対にあるのが坐禅の姿なんです。坐禅では両足を組んでしっかりと腰を据えて地面に坐ります。そして背筋を伸ばして前につんのめったり、後ろに反ったりしないようにして顔はしっかりと正面を見据えます。「今」という場所にどっしりと坐って未来に過去にも真正面から向き合っていく姿が坐禅なんです。なんとなく幽霊と坐禅のつながりがみえてきたでしょうか?幽霊の姿はただのお化けの姿ではなくて私たちの心の弱さを教えてくれる存在なんですね。そう思うと幽霊にたいするイメージも変わってくるかもしれません。そして坐禅の姿もまた坐禅をしている時だけの姿ではありません。普段の生活の中でも坐禅中と同じように真っ直ぐ前を見据えていく事が大切です。気づかないうちに自分の心が幽霊になってしまわないように坐禅の姿を思い出して過ごしていただきたいものです。

 

 これから寒い時期になります。寒いと特に背中が曲がってしまいがちです。背筋を一度ピッと伸ばして体も心も整えて寒い冬を乗り切っていただけることを願っております。

 

住職 合掌

体は知っている

 

 先日お寺の坐禅会で呼吸について質問を受けました。「坐禅をするときの呼吸はお腹を凹ませてするんでしょうか?」坐禅の時の呼吸についての素直な疑問

であったように思います。

 坐禅を始めると最初のころに当たる壁の一つにこの呼吸の問題があるように思います。私自身呼吸については初めの頃にどのようにすれば良いのかと迷った過去があります。坐禅をする時には呼吸を整えなければならないと頭で意識するあまりにどうやって呼吸をすればよいかわからなくなって息苦しくなってしまう、ひいては自分がどうやって呼吸しているのかがわからなくなってしまって過呼吸になってしまう…そんな姿すら見かけることがあります。そのように難しい問題のように感じる呼吸法ですが実は身近なところにヒントがあると思うのです。

 私たちは生まれた時から誰に教えられたわけでもなく自然と呼吸をしています。緊張した時にはドキドキと呼吸が早くなり、落ち着いているときには呼吸もゆっくりと行われているんです。その落ち着いているときの呼吸をすることが坐禅の呼吸となるのでしょう。ですから坐禅の呼吸は鍛錬によって得るというよりは本来自分の体が知っている呼吸の仕方に気が付くということなのではないでしょうか?もちろん自然の呼吸が良いといっても坐禅中に呼吸を意識しなくてよいというわけではありません。しっかりと深い呼吸を意識していくことは大切なのですが、あくまで呼吸は作るのもではなくて自分にとって一番落ち着くことのできる呼吸のリズムを掴んでいくことが大切なことでしょう。

 

 今回は呼吸法について書かせてもらいましたが、呼吸に限らず体に教えてもらうということは多いのではないでしょうか。人間はついつい頭でものごとを解決しようとしてしまいがちです。頭で考えたことを体にさせようとするのが本当のことのように思いがちですがそうはなかなかいきません。私たちの頭で把握できている部分というのは思っている以上に少ないものなのです。呼吸の仕方、心臓の動かし方、手足の動かし方…私たちは意識以上の部分で生かされているのです。

 どうしても物事がうまくいかない時、どうにも体がうまく動かない時、そんなときにはどうぞ自分の体の声を静かに聞いてみてはいかがでしょうか。

住職 合掌

新帰元ということ

「人は死んだらどこに行くんだろうか…?」

 これは人間永遠の問いかけであるのではないでしょう。なにせ実際に見てみるということができないのですから…。

 先日お坊さん達の勉強会があったのですが、その内容は「日本仏教と霊魂」というものでした。そこでは様々な視点から人間と霊魂との関わり合いについて教えていただきました。昔の人々がどのように霊魂というものを受け止めてきたのかを知る大変貴重な機会となりました。しかし、、、2時間近い講義を受けた後に結論として死後の世界がわかったのかどうなのかと聞かれると「はっきりとはわからない」というのが答えです。

 既存の仏教界では霊魂や死後の世界を明確に宣言している宗派は少ないそうで、明確に宣言することが早急に必要だと言われる方もおられるそうです。でも私からすると、既存の仏教各宗派も霊魂や死後の世界を否定しているわけではなくて、その表現方法に苦慮しているだけのように思えます。

 

 私は人が生命活動を終えた後には残る「なにか」は必ずあると思っています。そしてこの「なにか」を大切に受け止めていく事が遺された人の使命であり、支えだと思っています。仏教の用語に新帰元という言葉があります。この言葉はお葬儀の際に禅宗では仏前に祀る白木のお位牌の戒名の上に書かれています。そして49日の法事になって新調するお位牌ではこの新帰元という文字は消えて戒名だけがお位牌に書かれています。つまり新帰元という文字は人が亡くなってから49日を迎えるまでの間の姿を表す言葉なのです。

 私は新帰元を「私達の身体と命が新たに、おお元の世界に帰る」と読んでいます。私たちの身体を形成する成分は新しい物質となって再びこの宇宙を構成していく力となることでしょう。また、魂や命というものも消えてなくなるのではなく、宇宙を動かしている大きな力へと戻っていき私たちの周りで様々な縁を作り続けてくれるのだと思います。ですから、亡くなった人達は私たちが生きている中でうれしい時、悲しい時、つらい時、幸せな時・・・そんなさまざまなタイミングになるとその瞬間その瞬間に私たちのそばに現われてくれるのです。

 このような存在だと地獄や天国というような具体的な様子は描きづらいですし、幽霊や霊などのようにどこかにフラフラしているわけでもないしと、ズバっと表現できないのです。ズバっと表現するほうが安心できるという方もおられることでしょうが、あるようでないようで、そばにいるようでいないような・・・静かに暖かく見守ってくれているのが仏さまになられた方々の姿なのではないでしょうか?

 

住職 合掌

この橋渡るべからず

 

 暖かく過ごしやすい時期が訪れて心も体も元気になる季節がやってまいりました。そんな素敵な季節なのに世界を見渡すと様々な事件や争いが続き、どこか心に不安さを感じてしまっているように思います。極端で過激な考え方や不寛容さが広がってきていることが残念でなりません。どうか少しでも世界中が穏やかになっていく事を願っています。

 さて、今回は皆さんご存知のこの話からです。

昔々、一休さんという大変賢いお坊さんがおりました。一休さんが大変賢いという話を聞いて色々な人々が一休さんを困らせようと様々な知恵比べを仕掛けます。ある時一休さんが道を歩いていると目の目には一本の橋が見えます。この橋を渡ろうとした一休さんの目に映ったのは橋の前に立ててある立札です。

「この橋渡るべからず」

橋を渡らなければ進めない一休さん…その場に座って考え始めます。

ポックポックポックポックポック チーン!!

なにかを閃いた一休さんは立ち上がり堂々と橋の真ん中を歩いて渡り始めるではないですか。立札を設置した人はこれを見てびっくり。急いで出てきて一休さんに尋ねます。

「一休さん この立札が見えないんですか? この橋渡るべからずと書いてあるんですよ」

一休さんは答えます

「ええ、見ましたとも。 ですからこの橋の端ではなく 橋の真ん中を渡ったのです」

これには一本取られたという、とんち話として大変有名な話の一つであります。子供の頃に一休さんのテレビアニメを楽しみに見ていた頃を思い出しながら読み返しましたが、大人になった今読んでみるとどこか屁理屈のような話だとも感じてしまいます。

このお話では一休さんのとんちでもって物事を違った視点から見ることの大切さや面白さを感じさせられる話であるのですが、今日はこの「この端渡るべからず」についてお話できればと思います。それはお釈迦様の大切な教えの中にも「端を渡るべからず」という教えがあるのです。その教えは「中道」と云い、両極端な考え方や行いをしてはならないという教えです。修行時代の最初に極端な苦行で悟りを求められたお釈迦様でしたが、極端な修行では本当の心の安寧は得られないと気付かれたのです。どちらの端にも偏ることなく真ん中の正しい道を歩んで行くことが悟りの道であると気付かれたのです。私たちも偏ることなく正しい生き方をすればよいのです。・・・でも「真ん中・正しい」ってなんなのでしょうか? 私達人間は誰しも自分が「正しい」と思って生きているんです。でも、自分の「正しさ」だけを基準に進んでしまえば自ずと周りと衝突してしまうことでしょう。また、中道で極端が駄目だというなら、ホドホドで生きていけばいいのだろうと努力を怠ってしまっては元も子もありません。

 そこで私たちは自分勝手な正しさではなく仏さまの目から見た正しさを学ばなければいけません。その為には「自己の点検」を心掛けていくことが必要です。人間は生きていく為に自分の考えが正しいと思い込もうという性質を持っているのだそうです。それが行き過ぎて極端な考えになってしまわないように、生活の節々に自己を見つめ直す時間を設けることが大切なのです。私がおススメしたいのは一日一回仏壇の前などでお線香を立てて数分間静かに座ってみることです。忙しい日々のなかや周りに人がいる場所では中々自分を見つめることは難しいことでしょう。静かに座ることで冷静に自分の心の状況を見つめることができるでしょう。そして朝であれば今日一日の目標を決めたり、夜であれば一日の反省や無事に一日過ごせたことへの感謝などをしてみてはいかがでしょうか。そうすることで一日一日心のリセットができ心の状態を中道へと戻すことができて日々が穏やかなものになることでしょう。

住職 合掌

涅槃図にみる ~百聞は~

2月15日はお釈迦様の命日であり、この日を涅槃会といって私共は大切にお供養いたします。涅槃とは「煩悩を離れた悟りの境地」という意味合いで、お釈迦様は「亡くなられた」と言わずにお釈迦様は「涅槃に入られた」という表現が正しいようです。

 

この涅槃会に際しては涅槃団子を供えてお供養することが多いようです。これはお釈迦様が涅槃に入られる前に食べ物を所望された際に食べやすいように柔らかくした食べ物を用意したことが由来のようで、現代にも人が亡くなった際には同じようにお団子をお供えする風習が伝わっているのです。また、涅槃会に涅槃図というお釈迦様の最後の姿を描いた掛け軸をかけてお供養するお寺も多くあるようです。今日はその涅槃図に関する面白い話をご紹介します。

 

涅槃図では多くの弟子や神々、動物達がお釈迦様を取り囲んでいます。その中央お釈迦様の真下に一人の僧侶が悲しみ倒れている姿が描かれています。この僧侶は阿難尊者と云い常にお釈迦様のそばでお世話をする秘書のような立場でした。この阿難尊者は「多聞第一」とも呼ばれ、誰よりもお釈迦様の説法を聞いていた特別な存在として知られています。仏教の経典にはこの阿難尊者が伝え聞いたものをまとめたものが多くあるようです。そんな偉大な弟子である阿難尊者ですが、じつはこの涅槃図に描かれたお釈迦様が涅槃に入られる時点では悟りを開くことが出来ずにいたというのです。そしてお釈迦様が涅槃に入られた後に教えを再確認しまとめる為の会議が開かれることになりました。阿難尊者は最もお釈迦様の説法を聞いていたので会議には必要不可欠な人物であったのですが、その会議の参加資格が“悟りを開いたもの”であった為に阿難尊者は参加資格がない…それで、会議までに急いで必死に修行をして悟りを開いたと云われています。

阿難尊者が悟りを開くことがなかなか出来なかった事について曹洞宗の太祖瑩山禅師がこんな言葉を残されています。

 

「阿難尊者は多くの説法を聞き博識の域に達しておられた。しかし、知識を得ることばかりを好み精進をしなかった。道を得るには只真っすぐに自分の修行をするのみなのだ」

 

阿難尊者はお釈迦様の話を聞くことで満足し、自分で道を求める気持ちが足らなかったのかもしれません(とはいえ、お釈迦様という絶対的な方がいつも目の前におられるのだから心酔して聞くだけになってしまうというのもわからないでもないですが…)。それでは振り返って自身を見てみるとどうでしょうか?私たちは人の話を聞いたり本を読んだりと知識を得たり人の考えを聞いたりすることは多くあります。ですが、話を聞きっぱなし、読みっぱなしの事が多いように思います。聞いたのちに「では自分は…」と歩んでいくことが出来ているでしょうか?あるいは聞いたという実績や知識が増えたことで満足していないでしょうか?私は残念ながら後者であることが多いように思います。いくら素晴らしい仏教書を読んでも実践に繋がらなければ読まないのと同じことなのかぁ…とショボンとしてしまいそうです。

百聞は一見に如かず。  何事も一見、一歩が大切なことなのですね。

 

住職 合掌

百尺竿頭

 

 新しい年が明けてはや三週間が経とうとしております。皆さんは新年よいスタートを切れたでしょうか?私自身は年末年始と少しバタバタしておりまして、アッという間にお正月が過ぎ去ってしまいました。そしてお正月が終わったかと思えば今度は雪が毎週のように降る日々でなかなか落ち着かない毎日を送っております。

 私が住んでいるお寺の庫裏(住居部分)の台所の窓からはお隣の熊野神社の裏山が見えます。毎朝朝食の時には窓から裏山の木々を見ながら食事をしているのですが、その木々の中には竹林も含まれています。今日のような雪の日に竹を見ると雪の重さで竹の幹はどんどんとうな垂れていき雪の重みで折れるんじゃなかろうかと心配になるくらいに曲がっていきますが、少し暖かくなると雪が落ちて竹はまた空に向かって真っすぐと伸びていきます。竹は節があることによって柔軟性と強度を持つといいます。しなやかさと強さを兼ね備えた存在・・・そんな生き方をしてみたいものだなと思いながら竹を見ています。私は中国や日本などにあって雪が似合うイメージを持っていましたが、竹は中国日本南アジアだけでなくアフリカや南米など温暖な地域に分布する植物のようです。むしろ暖かいところの植物みたいですね。この竹は仏教においてもちょこちょこ出てくる植物で、お釈迦様がご修行説法をされた場所には竹林精舎という名前が付けられておりますし、禅にも「竹有上下節」「香厳撃竹」など竹を含む言葉があります。インド中国日本と竹が身近な存在であったあったことがうかがえる様に思います。今日はそんな竹に関する言葉についてお話させていただこうかと思います。

 禅の言葉に「百尺竿頭進一歩」というものがあります。直訳すると百尺(ものすごい長い)もある竿の先においてさらに一歩進みなさいという事になります。竿の先っぽまで行ったらその先はないわけですから「どうやって進めばいいの?」「何もないのに進んだら落ちちゃうよ?」と言いたくなります。禅語の説明には「本当の修行とは身も心も捨てて命がけで行わなければならないものであり先っぽから一歩踏み出す覚悟の大切さ」や「竿の先(悟り)に達したとしても修行者はそこにとどまることなくさらに歩み続けなければならない」というように云われています。何かを成し遂げたい!!あるいは今進んでいる道に迷いを感じてしまっている時には是非この言葉を胸に留めておいてもらいたいものです。

 この百尺竿頭進一歩の言葉を知ってからすでに10年程が経ちますが、最近すこしづつ言葉の受け止め方が自分の中で変わってきているように思うんです。20代の頃は先ほど書いたように、何かを得るためには勇気と覚悟をもって一歩を踏み出さなければいけないんだと受け止めていました。特にスポーツをやっていたこともあり技を磨くことや勝負ごとにはメンタルを鍛えることが大切なんだと思い込んでいたこともあるかもしれません。ですからこの言葉が非常に厳しい禅の教えなんだと思っていました。それが10年という時間やお坊さんとしての出会いの中で違った風にも見えてきたのです。それは百尺竿頭“信”一歩という受け止め方です。これは私が勝手に作った言葉ですが、百尺竿頭において信をもって一歩を進めるという事です。決して何もないところに飛び込むわけでもなく決死の心で突き進むわけでもない。信念、信心、信頼などを持ち続けていたら自然と竿の先に道が現れるのではないでしょうか?何かを得る為に必死になることはもちろん大切なことです。努力なしに何かを成就することはないでしょう。でも、何かを得ようと思って竿の先で必死に手を伸ばし足を伸ばししているのもまた苦しいものです。人間は自分一人で生きられる動物ではありません。多くのものに支えられて生きています。その支えられているのものに対して“信”の心を持つときに私たちは自在に竿の先を見渡すことができるのかもしれません。

 竹のしなやかな強さはとっても素敵ですが、その竹は土に埋もれた地下では竹林すべてが根によって結ばれています。竹は地上部分だけでなく見えない部分で皆が支えあっているのです。私たちも信という人間ならではの力を信じて過ごしたいものです。

                                 

住職 合掌

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